セックス

射精したあとは動きたくない。相手の体に覆いかぶさったまま、押し寄せてくる眠気を素直に受け入れたい。

以前歯医者の待合室で読んだ女性週刊誌に、後戯のないセックスはデザートのないディナーようふふ、というようなことが書いてあったが、男から言わせてもらえれば、ふざけるなバカヤローである。射精した直後に乳など揉みたくない。たとえ相手がジェニファー・ロペスであってもだ。男という生物の体は、エデンの昔からそうできている。

なぜ俺がそういうことを考えているのかというと、精を放出し、女の腹の上で荒い息を吐いた時を思い出したからだ。

これも何かの雑誌の受け売りなのだが、射精時のエネルギー消費は、百メートルを全力疾走したのと同じだそうだ。二〇〇〇年のオリンピック・シドニー大会、九秒八七でゴールを駆け抜けたモーリス・グリーンが、ウイニングランの途中で見つけたスタンド最前列の巨乳ちゃんにタッチしたいと思っただろうか。

女の肌はしっとり濡れている。絶項を迎えようとする時、彼女の体は熱を帯び、激しく発汗した。次第にそれが冷めかけ、俺の体から火照りを奪っていく。

体がビクンと震え、俺はわれに返る。

あまりの気持ちよさに眠りの世界に吸い込まれてしまったようだ。 ふたたび眠りに落ちそうになるのをどうにかこらえ、左手で女の体を探る。脇腹をなで、肋骨を指でなぞり、乳房を掌で包み込む。そうしておいて右手では、乱れた茶色の髪をなで、耳たぶをつまみ、後れ毛の張りついた首筋をタップする。そして最後に口づけを。ごく軽く、小鳥が木の実をついばむように。

ああ、なんだって俺は、一度斜め読みしただけの記事に呪縛されているのだろう。そもそもこの女とのセックスに愛情などないというのに、律儀にサービスをしてしまう俺。 溜め息を吐きながら、腕立て伏せをするように上体を浮かした。膝を突いて完全に上体を起こし、ペニスを抜く。体をよじって枕元に手を伸ばし、ティッシュペーパーを二、三枚抜き取り、しなびたペニスを丁寧に拭う。
サービスついでだ。ティッシュペーパーをもう二、三枚手に取り、それを女の股間に持っていく。すると女は恥ずかしそうに身をよじり、背中を向けた。なんだ、こいつは。処女でもあるまいに。

不愉快になり、俺はベッドを降りた。脱ぎ捨ててあったブリーフとシャツを拾いあげ、バスルームに向かう。ああと溜め息をついたり、ちくしょうと吐き捨てたり、舌打ちを連発したりしながら、頭からシャワーを浴びる。

部屋に戻ると、入れ替わりに女がバスルームに向かった。それを見てまた不愉快になった。わざわざバスローブを着ていたからだ。

ついさっきまで素っ裸で男に組み敷かれていたというのに、今さら隠すことに何の意味があるのだろう。それが女心といわれても納得できない。

濡れた髪を後ろで縛り、ソファーに体を投げ出してタバコをくわえる。セックスなどしなければよかったと思う。毎度のことだ。 セックスは、そこにいたるまでの過程が楽しく興奮するのであり、ベッドに入ったあとは退屈と苦痛にさいなまれる。耳たぶを嚙むのも、乳首を吸うのも、膣を指で搔き回すのも、すべてがルーチンワーク。しないですめばそれに越したことはないのに、ついつい奉仕してしまう男の性。

射精の瞬間は恍惚に包まれるが、直後、一転して泥沼のような疲労が全身にのしかかる。そして後悔。それでも時間が経つと、また女の体を欲してしまう。これも男の性。

毎度毎度、その繰り返しだ。 シャワーの音がやむ。女はいつまで経っても姿を現わさない。見ると、洗面台の前でルージュを引き、茶色の髪にブラシをあてている。

俺は二本目のタバコに火を点ける。事後の一服はどうしてこんなにうまいのだろう。ニコチンの粒子が六十兆個の細胞一つ一つの奥にまで浸透し、倦怠感を安らぎに変えてくれる。脳の血管が収縮するのが手に取るようにわかり、いかにも寿命が縮みそうではあるのだが、この一服はどうしてもやめられない。

たいした会話もないまま目黒駅に到着した。女に別れを告げる。

「今日はどうも」

しかし女は車を降りようとしない。

「五時までに帰らないといけないんだろう?」

女は首をこちらに向け、上目づかいにじっと見つめてくる。
「何?」

「いい?」

「何が?」

「だから……」

「だから?」

「ほら」

「はい?」

俺はどこまでもとぼけた。すると女はつと目を伏せて、 「少し援助して……」 と、か細い声で言った。

おい、おまえも金目当てだったのかよ。

援助しろ? ふざけるな。さっきのあれはなんだ。喘ぎ、悶え、濡らし、そうやってたっぷり楽しんでおきながら金までむしり取ろうというのか。金をもらいたいのは、ヘトヘトになるまでご奉仕してさしあげた俺のほうだ。

あのな、おまえ、いい機会だから日本語を教えてやる。援助交際? 美化するにもほどがある。そういうのは売春というんだ。憶えておけ、この売春婦が! ──と啖呵を切るわけにもいかず、 「ああ、うっかりしていた。ごめん」
俺は曖昧な笑みを返しつつ、財布から一万円札を抜き取った。女はわずかに眉を寄せ、俺の顔と一万円札とを見較べた。俺は溜め息混じりに下唇を突き出し、もう一枚抜き取った。

女はすると、二万円をひったくるようにして手中に収め、トートバッグの中に無造作に突っ込み、俺のことなど一顧だにせず、夕方の雑踏の中にまぎれて消えた。